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他人の意識を借りてつくった寄木細工

つい先日「音楽なんて実際はなんの役にも立たない、しかし有史以来今まで音楽が途絶えた時代はない。その事実こそが重要だ。」という旨の物言いを目にした。そうなんだろうなと思う。思うけど、そんなロマンスめいた言い方ではロマンスに酔って終わるのではないか。
酔って終わると言ったが何が終わるのか。音楽の重要性とか必要性への問いか?ボブディランは音楽の無料配信による音楽の価値の見直しについて「音楽に価値があった時代なんて今まであったか?」と言ったそうだ(うろ覚え)。言った人が人だけに単なるうそぶきな気もするが……。何にせよこういう道化は最高である。求道と道化の視点は常に持っていたい。


音楽は自己表現、みたいなことを一応それなりに考えてきたがしっくりこない。
結局はベタに自己顕示欲という人間か、まあそれも仕方ない。とはいえ近頃ようやく個人的に座りのいい方向性が見えてきたような気がする。音楽の感情表現的側面に(自分がやる側としては)さして興味がない人間にとって、音楽のどこまで行っても抽象でしかありえない造形性というか、こういう色/カタチをつくりたい→ある程度達成→しかし抽象だから閉じきらないということはとても魅力的なのです。それは主にライブでわかりやすいと思う。
その広がりに身を投じたい。

保坂和志が「小説の誕生」で、ある彫刻評論を引用していた。「鉄を使って鉄を考える」というものだ。僕がこれを見て考えたのは、「自分が出した音の連なりそれ自体が、音楽のことを考えているような音楽」をやりたいということだ。(と言っても、考えたというより、今まで漠然と考えていたことに輪郭が出来た……とこういう言い方も酔いというか完全に保坂インスパイアで恥ずかしい限りである。しばらくどうにもならなさそう。)
カタチや色合いの面白さを求めて変拍子やポリリズムや童謡のようなメロディを模索していた。複雑なことや難しいことをやっていれば「音が音楽を考えているような音楽」になるかと言われればもちろんそんなことはない。しかし今トゥラリカでやっていることは、演奏の中で(あるいは外で)流れる時間や空間の感じ方の強固さや制限下で発生する思いがけない自由を知ることが出来る。それで演奏する側も考えさせられる。まだ気付いてないことも含めて掘れることはたくさんある。ここまで書いたらもう立派なロマンスじゃんと揶揄されても仕方ない。このまま終わらせないように
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