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雪国 2011/03/08

恥ずかしながらこの歳(22歳)になるまで川端康成をきちんと読んだことがなく、1ページ~2ページで終わるような掌編小説(「心中」は名作)をちょろっと読んだ程度だったのですが、今日ようやく超ベタな日本近代文学の代表格「雪国」を読了しました。でも個人的には「よし、今こそ」みたいな直感があったので良いタイミングだったと思います。特に印象的だった部分を。

島村は単身雪国へやって来た妻子持ちの男性、駒子は雪国の芸者。


(以下引用)
 毛よりも細い麻糸は天然の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、なにか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。
 けれどもこんな愛着は一枚の縮(※「ちぢみ」と読む。肌着。)ほどの確かな形も残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にしても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い慣れは縮ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮かんで来たりして、島村ははっとあたりを見まわした。疲れているのかと思った。

駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村には不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突き当たる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。
(岩波文庫 「雪国」161P~162P)


日本文学の重要なエッセンスとして夏目先生の「夢十夜」「永日小品」があると勝手に思っているのですが、川端先生のこういったセンテンスの鋭敏極まりなさは確実にそのラインに属するものでしょう。
前者の引用は段落が2つありますが、これって普通だったら片方の段落(のようなテイストの文章)しか書けないと思うんですが、両方を1つの流れの中で書けてしまうのが凄い。どちらが欠けても「何言ってんだよ」となる。説得力で圧倒的に差が出るような気がします。うまく言えないし、太宰好きの人には申し訳ないけれど、この論法だと個人的に太宰は片方のテイストの文章しか書かないからあまり肌に合わんのですわ。この感覚がどれだけ伝わるかわからんけど…。むしろ太宰好きの方になら伝わるかも知れない。ただ、太宰はその分「片方」をとんでもなくうまく書く。
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