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無限の内部

なんとなく森敦「意味の変容」を再読して、ここ数日そのことをよく考えています。


森敦は言ってみれば小島信夫の師匠みたいな人で、横光利一に師事した後、太宰治らとともに同人活動をしていたものの、突然作家活動をやめ様々な労働に従事しながら各地を転々とします。そして還暦あたりで作家活動を再開、「月山」で芥川賞を受賞してからはテレビにもよく出演するほど勢力的に活動していたといいます。

小島信夫は森が文筆業から離れている間も助言を仰いでいたほどだそうです。


森敦の思考は、数学的論理や宗教思想を含有した、難解でありながらもあくまで日常生活から抽出されたもので、その手触りはいわゆる思想を語る種の文とはかなり趣を異にしています。
「意味の変容」はそんな彼の思考を結晶化したともいえる私小説(的な小説)であり、長年手を加えられて1984年に刊行されたのでした。





(引用開始)
うん、その照準眼鏡が戦闘機の機関砲に、平行に装備される意味についてはもう言うまでもないだろう。しかも、その倍率一倍もそう称するだけで、実は倍率1,25倍なのだ。正確に倍率1倍だと、ものがなんだか小さく感じられて、接続しないような気がするんだ。
「きみは外部は境界がそれに属する領域だと言った。それが実現されるからかな」
境界は内部を外部に、外部を内部に変換する恐るべき意味を持っているが、たんなる概念だよ。ただ、枠を通して見ると、ものはなんだか小さく感じられ、接続しないような気がする。それを克服しようというまでのことだ。きみたちのリアリズムだって、多少の誇張はいるだろう。
「そうか。
  
  われわれのリアリズムは倍率1倍と称する倍率1,25倍である。

いや、納得が行くよ。われわれだっていささかの幻術もなくそうとすると、なにもできなくなる。」
(引用終わり)



(引用開始)
だって、きみも作品を創造するのは境界がそれに属しない、大小の内部を実現しようとしているんじゃないのかね。そうであればこそ、光学工場も書いて、内部といわれる世界になる。ダムの現場も書いて、内部といわれる世界になる。小さな印刷屋も書いて、内部といわれる世界になろうというものじゃないか。外から見て大小を言う読者を内部といわれる世界に引き入れて、大小を言わせぬようにしなければいならない。
(中略)
書こうとすると書かせまいとするコップのために、幻術が必要になって来るのさ。
(中略)
いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応するものとすることはできない。対応するおのとすることができなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味をもつことができない。
(引用おわり)




1度通読した後、折に触れて拾い読みで再読しているのですが、やはりその言わんとしているところをきちんと把握できる箇所は少ないです。常に「これはこういうことなのだろうか」位で止まってしまう。

内部、というとどこか閉鎖的な印象を受けがちですが、森敦が語ることにはむしろ保坂和志の言うような「閉じない小説」と共通する部分があるように思います(保坂氏は小島信夫から同様に森敦からも——特にこの作品から——強い影響を受けているのではないでしょうか)。内部について(断続的にでも)考え続けたり、内部に入ることで出来上がった感覚を持ったまま生活していったり……それは無限の内部のとっかかりとは言えないでしょうか。
「閉じない」からこそ出来る内部というか……。内部との逆転?

この作品、文庫にして150ページない薄いものですが、描かれる内容が他になさすぎて読むときに自分で何をよりどころにすればいいか分からないため、ある程度書かれていることのベクトル(みたいなもの)を把握するのにすら時間がかかります。とにかく読み応えの塊のような本です。ですが決して徒労には終わらないと思います。
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